新しい試験の形

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今、英語教育は揺れています。何が正しくて何が間違っているのか見極めるのは容易ではありません。でも一つだけ言えることがあります。それは「正しい試験をせずして正しい教育はありえない」ということです。では、我々の試験は果たして正しいのでしょうか。

私は、人様のやっていることを評価したり、批判したりする立場にはありませんが、でも一方で、現行の試験を「確立された試験である」というだけで無謬と信じるのは正しくないとも感じております。正直に申し上げますと、そもそもTOEICやTOEFLなどの英語圏で作られた英語のテストは、受験する「外国人」として西欧語圏内の人々を想定しているように見受けます(問題を見ていると、そう見えるということです)。西欧諸語は何らかの点で英語と気脈を通じあっていますから、一部の文法の問題を除けば、語彙面などでも、統語論的にも比較的英語と親和性があり、それらの言語を母語とする人々は、英語学習が比較的容易です。中国語は英語とは表記形式は全く異なりますが、文法構造は通じ合うところがあります。ところが、日本語は英語とは全く共通点がありません。特に統語のルールが全く異なること、語彙面での共通性がまるでないことが、日本人が英語を学習する上で大きな障害になっています。これを解決するためには、ルールをコンパクトかつ統一的に理解することに加え、なるべく少ない語彙力を効率よく活用することが求められます。幸い、日本人は極めて高度な抽象化能力を備えた人種だと言えます。そこで、その能力を利用して未知の表現の類推能力を手に入れていくことが、本来「日本人にとって」最適の英語力の判断基準だろうと思います。たまたまある言葉を「知っているか否か」が言語能力の勝負を決める基準であれば、日本人は英語を母語とする人々はおろか西欧諸語を母国語にする人に敵わないでしょう。ですが、限られた知識を効率よく使って、多少細かなニュアンスに目をつぶっても内容の核心部分を把握する能力なら、十分日本人は諸外国の人、さらには英語圏の人々にさえ伍する事ができると信じます。英語の側も、これまで以上に国際語としての役割を深めていく中で、たまたま一地方、一時代で常識とされた表現が大きな顔をしてのさばることはできなくなり、より標準的で、地域背景にかかわらず理解できる語彙や表現だけが求められるようになると考えられます。そのような時代に、本来英語と似た背景を持つ言語にしか想像力が及ばない英語圏の人が作成した試験や、いたずらに知識量を誇るような時代錯誤な英語観を持つ人々が作るテストは、日本人にとって足枷とはなってもその力を伸ばすための道具にはなりえないのではないかと考えます。

もう1つ、我々日本人にとって英語を学ぶことには重要な副次効果があります。それが「日本語力の向上」です。考えてもみてください。我々の言語である日本語は、他の言語を第一言語にする人にとって、ほとんど暗号と言ってもいいほど理解しがたい言語です。この言語を大事にしていくことは、グローバル化という美名で呼ばれる今の均質化まっしぐらの世界で、我々の立場をしっかりと確保し、世界に対抗する上で重要なことだと私は考えます。数年前に名古屋大学の益川敏英氏がノーベル賞を授与された時、「自分は英語ができない」と発言されたことが、英語圏の専門家の間で大きな話題となりました。英語を解さない人間がノーベル賞級の研究をするということは、彼らにはある種の恐怖の対象であったことは想像に難くありません。もし私が英語圏に住む独裁者なら、日本人から日本語を奪うことを真剣に考えるかもしれません。何しろ、日本語で行われたことは、英語圏の人には完全な暗号であり、彼らに「理解できない文明」が存在することは、当然ながら脅威だからです。

だからこそ、我々は我々が祖先から受け継いだ「日本語」という資産を大切にするべきだと思います。誤解のないように申し上げますが、私は本気で「西洋による日本滅亡論」を信じているのではありません。でも、日本人が日本語を堅持し続ける限り、万一そういう意図を持つおかしな連中が登場しても対抗できるはずだと言っているだけです。そして、たまたまではありますが、英語の思考と伍するだけの思考力を備えた日本語という言語を母語として与えられたということは、ある意味とても幸運なことだと考えるわけです。

話が少し脱線しますが、最近英語以外の科目まで英語で勉強させようという企画があるようですが、これほど馬鹿げたことはありません。理由は簡単。我々の殆どにとって、日本語以上に外部の情報を正確に理解できるインターフェイスはないわけです。それをわざわざ捨てて、自分にとって苦手な情報伝達手段だけを使って難解な内容を理解しようというのは、悪い冗談としか言いようのない愚策です。それは、男が女にハイヒールをあてがうことで、女の自立を挫こうとしたという話に通じるものがあります。ハイヒールを履いているのはほとんど竹馬に乗っているのと同じくらい不安定な状態ですから、心理的にも不安になり、他のことに集中し難くなります。そういう状態に女性を追い込んで、精神的に男に依存させようとした、という話です。嘘か真か私は知りませんが、たしかによくできた話ではあります。

話をもとに戻しましょう。私は英語の試験を通じて、我々が日本語を相対化し、日本語に対する理解を深められることが、英語を学習することの持つ重要な意味だと信じます。従って、英語力を試す試験を通じて日本語に関する理解や見識を問う問題を作ることは十分に可能だと思います。

さらに言えば、先程述べた推理能力は、英語という一つの道具の取扱いだけではなく、我々が様々なシステムの要点を理解してそれをうまく使えるようにするという能力に深く関わっています。今ほど、この種の人間だけができる思考力の確立は、大袈裟でなく人類の未来を左右するほど重要なことです。そのうち、考えることはAIに任せるようになり、そういう職業はいらなくなる、と言うお考えは全くの誤りと言わざるを得ません。今はディープラーニングという言葉が流行っており、その言葉のニュアンスから、人間と同じか、場合によっては人間以上に深い思考能力をコンピューターが持つに至っている、という認識が広まっているようですが、それは事実ではありません。その理由は簡単です。我々人間は、まだ自分がどのようにして思考しているかを分かっていないからです。分かっていないことを機械に移植することは誰が考えてもできません。ではどうしているのか。コンピューターは「結果を真似ている」だけなのです。発想はグーグルと同じ。グーグルは最もよく選ばれる検索結果を最初に表示すれば人々は探している情報に早くたどり着ける確率が上がる、という思想に基づく検索エンジンを作って成功しました。人々がなぜ、どういう経緯でその情報を求めるのかはグーグルには無関係です。簡単に言えば一種のキセルですね。最初と最後が一致していれば、真ん中はどうでもいい、という発想です。現在のAIもそういう設計思想によって作られているようです。人間が行うことを記憶してそれを再現する、つまり入力と出力が人間と同じになっていれば人間と同じ結果が出せるはずだというのが人工「知能」の発想です。つまり、逆説的に言えば人工知能には知能はないのです。やれ将棋で人間に勝った、とうとう碁まで人間を凌駕した、と騒いでいますが、碁も将棋も人間が作ったゲームであり、コンピューターが人間の思い付かないゲームを作ることは、今のやり方では永遠にないでしょう。

全く新しい着想や発想は、今だに人間だけの特権です。私が寧ろ心配なのは、人間は根本的に怠け者だ、ということです。それは人間の精神だけでなくて肉体もであることは、ビタミン剤の罠のお話を考えれば明白でしょう。健康な人間は、自分が生きていく上で必要なビタミンは自分で作る能力があります(病気の方は違います。その点は誤解のないようになさってください)。ところが、人間の体は怠け者で、体外からビタミンが補充される場合、自分でビタミンを生産するのをやめてしまうのだそうです。勿論、ビタミン剤を飲んでいる間はそれで万事うまく行きます。実際にはその人間は必要のないビタミン剤に無駄金を払っているわけですが、本人がそれでいいのですから問題はありません。問題は、たまたまビタミン剤が切れたときです。一瓶飲み切ったが補充を買い忘れた、というような場合ですね。この時、すぐに体がビタミンを作り始めれば問題はないのですが、人間の体は怠け者で、体外から補充されなくなってもすぐには動き出しません。すると、当然その体の持ち主は一時的にビタミン不足に陥ります。つまり体調が悪くなるわけです。そこで薬屋に駆け込み、ビタミン剤を買い求めて飲めば、必要なビタミンは補われますから体調はもとに戻ります。そしてその体の持ち主は「ビタミン剤が効いた」と思うわけです。これが「ビタミン剤の罠」です。問題は、同じことが人間の精神にも起こるのではないか、ということです。

今やっている「入力と出力の辻褄を合わせる」人工知能は、今後人間の生活に大きく入り込み、殆どの場合人間の手間を省いてくれる方向に動くでしょう。でも、人間が必ず間違いを犯すことから推理すれば、その人間をシミュレートしているコンピューターは、時々ランダムに間違えることを回避できません。問題はその時です。我々は普段様々なところで「判断の過ち」を犯します。それは我々に、大小はともかく危機をもたらしますが、我々は大抵の場合、それをなんとか切り抜けていきます。なぜかと言えば、我々は常に自分の精神を使っているからです。普段使っているからいざという時の負荷にも対応できるのです。ところが、普段の正常な判断を全てAI任せにしていたらどうでしょう?とてもではないですが、自分では対応できないはずです。ビタミン不足の肉体と同じく、我々の精神もまた、怠け者のはずです。普段怠けているのにいざという時にだけ最良の解を導けるなどと考えるのは、あまりにも非現実的です。それこそ、既に自動化の恩恵を最も受けている民間航空のパイロットたちは、定期的に自動操縦を切って、自分で操縦する訓練を受けるそうです。それは、勿論いざという時のためです。

そして私は、人間が最も知的能力を働かせているのが言語処理だと思っています。機械翻訳が日進月歩だそうですが、私の目には全くそうは映っていません。なぜかというと、言語は現実という無数の可能性と直接向かい合い、しかもそこに自分以外の人間が介在するからで、我々自身、昨日は考えてもいなかったことを発話することがあるからです。勿論、挨拶や商売上のやり取り、儀礼的な言葉の交換はAIでいつでもできるようになるでしょう。でも、AIは生きていません。我々は意識のある時様々な場所で、様々な経験をしています。しかもそれは誰一人として完全に同じものはなく、同じことは二度と経験しません。ましてや、外国語との付き合いと言えばまさしく一期一会です。私もこれまで仕事で英語に向き合ってきて、ある英語表現をそれまで全く思ってもいなかった日本語に置き換えた経験があります。幾つもの言葉が、その人間の全人格の中で響き合い、場合によってはさらに他の言葉やその現場にいる他の人間の影響を受けて「意味」と呼ばれる1つのまとまりに結実していきます。自分でも、通った過程は説明できないし、恐らく二度と同じ言葉に置き換えることはない、そういう経験が言葉にはいくらでもあります。

私は数ある人間の中でも最も怠け者の部類に属するはずですから、仕事でもなければこんな面倒くさいことには決して関わっていなかっただろうと思います。その意味で、この仕事に感謝すべきなのでしょう。ですから、もし私が英語の試験を作るとしたら、それが例えば何かの資格の為でれ、学校への合格のためであれ、結果的に受験者の知性を高めることによってのみ高い点数にたどり着くような問題を作りたいと思います。

試験、特にその成否によって人生の選択が行われるたぐいの試験はありがたいことに馬の顔の前にぶら下がった人参のようなもので、人間のモチベーションをこれほど高めるものはありません。だから、ある意味社会が人の能力をより効率よく高めていくために試験を人参代わりに使うのは間違っていないと思います。問題は、その試験の内容が、本当に受験する人々のあるべき能力を測定しているか、そして正しい方向への勉強の動機づけになっているかだと思います。そういう視点に立脚した時、今ある試験と今ある教育内容が本当に適切なのかどうかという議論が初めて可能になるのだと思います。

ただし、こういう仕事は1人ではできません。有能な協力者がたくさん必要です。願わくば西進塾に集う様々な人、分けても英語教育に関心と関わりのある方が、当塾での研鑽を通じてよりその見識を深められ、可能であれば私と一緒にそのような仕事に関わっていただける日が来ることが、実は私の密かな願いであったりします。