AIによる自動翻訳と語学学習の新たな地平

Pocket

先だって、Google翻訳アプリが遂にカメラに対応したという記事がネットニュースで流れました。早速導入してみたところ、その素晴らしさと問題点が浮き彫りになり、これによって語学学習は新しい地平に入ったということがはっきり実感できました。簡単に申しますと、空港の掲示やホテルのサービスディレクトリ、レストランのメニューやスポーツジムの入会規定などのレベルの文書は、Google翻訳で十分賄えると思います。単語の訳は昔に比べて遥かに正鵠を射たものになりましたし、構文も簡単なSVOC文型くらいまではちゃんと取れます。しかも、上に挙げたような文書は日本にも似たようなものがあり、その内容は似たりよったりですから、たとえ一部に誤訳があっても単語の意味からある程度推量が可能です。だから例えばdepartureもarrivalも知らないような人であれば、空港で行き先案内をGoogle翻訳にかければそれだけでも十分楽に移動できるようになるはずです。

これは素晴らしいことです。正直日本人のかなりの割合の人が「departureを知らない」レベルの英語力しかありません。その人達にとって、日本以外の国は恐怖の場所でしかなかったのです。私も経験がありますが、アラビア語は私には一文字もわからないので、アラビア語圏ではいわゆる「文盲」状態になりました。勿論アラビア語を話すこともできないので、アラビア語圏では単独行動はできませんでした。現地でも、英語の表記があり、英語が話せる人がいるのは限られた場所だけだったからです(勿論これは20年も前のエジプトでの話です)。会話が通じない、のは「ちょっと怖い」程度ですが、「文字が一文字もわからない」のは恐怖の対象です。日本人の場合、アルファベットくらいは勉強した経験はあるでしょうが、それでもアルファベットの連なりを「言葉」として認識するのが難しいレベルの人はまだかなりいると思われます。その人達の行動半径を一気に広げてくれるのがGoogle翻訳であることは間違いないと思います。

ただ一方で、Google翻訳はAiによる自動翻訳の限界を露呈してもいます。簡単にいえば、「複数の可能性のある解釈を総合的に判断できない」ということです。単純な話、betterという言葉には形容詞goodと副詞wellそれぞれの比較級であるという「二つの可能性」があります。見かけ上同一なので、他の言葉の配列との兼ね合いの中でしか品詞、そして意味が決められません。ところが、Google翻訳は意味を一つしか提示できません。複数の意味を提示するとなると、言葉が長くなればなるほど解釈できる可能性が等比級数的に増え、いずれ機械翻訳の意味が失われるからです。するとそういう場合、Google翻訳は1/2の確率で常に間違えることになります。これが人間であれば、たとえ複数の文にまたがってでも、他の言葉との関連の中から正しい品詞と意味を見いだせるのですが、そこにおける人間の精神活動は、「今のところ」数値化できないので、AIにはなじまないのです。

これが意味するところは明白です。今後は、これまでもてはやされてきた単なる言葉のキャッチボールである英会話などはほとんど無価値になるでしょう。Google翻訳が音声に対応するのは目に見えているからです。また、中学校でやっている程度の「単語から意味が推測できる」読解なども全く必要なくなる可能性があります。ただ、新しくand/or複雑な概念を正確に提示する、あるいは理解するための語学力は大いに必要になるだろうと考えられます。別の言い方をすれば、アマチュアはいらなくなり、プロフェッショナルだけが必要になるといえばいいでしょうか。

だからといって「翻訳家」的職業が繁栄すると考えるのは早計です。翻訳家は万能選手ではありません。話が専門的になればなるほど、単に用語の問題ではなく、専門性の高いその分野全体への見識が求められるからです。翻訳は人間の精神活動ですから、必ずその人間の解釈が入り込みます。解釈の前提はその人間の素養、即ちその人間の精神生活の歴史です。ある分野での経験のない人間にはそれは難しいわけです。

つまり今後求められるようになる英語力とは、AIに任せられないような正確な理解が求められる分野で、しかもそれはそのやり取りをしている本人が持たなければならない能力になる、ということです。これは必ずしも「専門的な分野」に限りません。どの分野であれ、日常生活であれ、我々は空港やホテルの掲示程度の日本語だけで生きているわけではないのです。縄のれんで自分たちの仕事の意味について、熱っぽく語っている酔客の言葉も、Google翻訳では対応できません。

話が脱線しますが、近所によく行く焼き鳥屋があります。外国人に人気の店です。彼らは声が大きいので、聞きたくなくても話の内容がよく聞こえるのですが、結構入り組んだ話をしています。業界内部の話をしていることも多いので、細部までは理解しきれないのですが、結構複雑な構文・文法の文を話しています。時折、日本人と外国人の混成のグループがあって、そのような場面で日本人と外国人が英語でしているやり取りは割と単純なものであることが多いのです。何も話せないよりは遥かに素晴らしいと思いますが、その程度の会話ならばいずれ機械でできるようになるでしょう。

私は機械翻訳の可能性を否定しません。寧ろ素晴らしいものでしょう。英語だけでなく中国語などでも機械翻訳ができれば、多くの中国人観光客とももっとスムーズにやり取りができるでしょう。そういう意味で、機械翻訳は世界を広げてくれる可能性を持つ素晴らしい道具です。多くの人を外国語学習から開放してくれるとも思います。でも、そこまでが機械で出来るようになるなら、もし人間がやるとすればそれを越える必要があります。そういうことが明確になっていくにつれ、今もてはやされているTOEICなどはほとんど不要となり、英語力の指標はもっとシビアなものになっていくと思います。

今後もしあなたが、英語を勉強したい、と思うなら、機械翻訳で取って代わることのできないところまで能力を高めるべきだと思います。そこまで行かないなら、勉強することに意味はなくなるでしょう。ロープウェイで登れる山に、歩いて登ってもそれは自己満足でしかありません。このような認識が広まってくれれば、日本の英語学習に関する認識は大きく変わるかもしれません。学ぶ人の数は確実に減るでしょう。けれどもその人が求めるものは、機械に代われない、一方で特殊な文化的背景を必要としない普遍的な能力になるはずです。そうなるのが、日本における異英語学習にとっても幸せな未来だと、私は思っています。